タイトル | : 白村江の惨敗に至るまでの路 |
投稿日 | : 2004/10/07(Thu) 22:23 |
投稿者 | : 山家 |
先述したように、百済救援出兵を決断する時点では、日本としては勝算が十二分にあったように思われます。それが何故、失敗したのでしょうか。
百済救援作戦において要となるのは、豊璋の存在でした。唐・新羅連合軍の百済侵攻作戦により、彼が事実上唯一、唐・新羅に確保されていない百済王位継承権者になっていたのです。
しかし、彼は余りにも名目・資質共にその資質に欠けていました。名目からいうと王太子どころか、王位継承権を認められているだけの王族に過ぎず、資質からいうと百済復興運動の中で最高の軍事指導力を持っていたとさえ言っても過言ではないように思われる鬼室福信を双方の行動から来る不信感から処刑するような人材だったのです。
これでは、唐・新羅に対する抵抗運動=百済復興運動という動きにならず、ちょうどユーゴスラビアがWWUの後、王国が復興せずに社会主義国家に変貌したように、結局、旧百済国民が新羅を支持し、新羅による朝鮮半島統一という結末を迎えたのは、ある意味止むを得なかったと思われます。
もちろん、日本の行動に過誤があったのも否定できません。日本は彼を臣下の娘の婿とし、彼を臣下にしています。百済復興運動に携わってきた人から見れば、彼を百済国王にすることは、百済を日本の属国にすることに思われたでしょう。
そうした結果、黒歯常之を初めとする人々は彼の下に集わず、唐・新羅への抵抗運動は、百済復興運動にはつながらなくなり、日本の百済救援作戦は失敗したように思われます。
なお、当時の日本と唐の軍制(当時の日本は豪族が兵を徴募し、さらにそれを朝廷が率いるのに対し、唐は府兵制を確立していた)を比較して、それを日本の敗因に求める見解がありますが、私はそれに首を傾げます。
唐の府兵制度ですが、結局のところ、強制徴兵された農民が集まった兵士に過ぎません。そのような兵士が、練度はともかく士気が高いでしょうか。実際、安史の乱で府兵制は無能をさらけ出しました。それに対して、地元に密着した豪族が兵士を徴募し、郷土部隊を編成する日本の軍制が特に劣っていたようには思われません。
白村江で日本海軍は確かに惨敗しました。しかし、その後も、唐・新羅は日本に気を遣い続けざるを得なかったのです。それを思うときに、日本は白村江で惨敗しても、東アジアにおいて端倪すべからざる実力をその後も持っていたと思います。