タイトル | : 征服国家ゆえのモロさでは? |
投稿日 | : 2004/11/06(Sat) 12:51 |
投稿者 | : Walking Aircraftcarier |
山川出版社の歴史地図で見ると、百済は、もとは漢城(ソウル)周辺が領域だったものが、次第に南下して全羅道周辺を領域にするようになって(漢城周辺は高句麗にとられて)います。この「南下」の点では新羅も同様です。
さらに、これはウロ覚えなのですが、百済・新羅・高句麗は(日本もですが)、王朝の誕生神話が非常に似通ったものだったはずです。
そうしてみると、この3国は、もと満州東部にいた民族が部族ごとに南下して……高句麗は本拠地に片足を残したままで……王朝を作った征服国家だったもので、半島南部の土着民族とはまだ十分に融合できてなかったのではないでしょうか。
この種の若い征服国家の場合、アタマを潰されれば終わり(「在地豪族」レベルの抵抗ができない)ですから、1回の戦役で吹っ飛んでしまうことがありえるし、歴史上にもその例はけっこう多い(中国では五胡十六国時代の前秦、ヨーロッパでは東ゴート王国・ランゴバルド王国など)と思うのですが……