History Quest「戦史会議室」
[記事リスト] [新着記事] [ワード検索] [過去ログ] [管理用]

タイトル 百済滅亡と1940年の対仏戦役
投稿日: 2004/10/04(Mon) 21:40
投稿者山家

 2ヶ月以上ぶりに、こちらを訪れたところ、白村江の戦いの話題が出ており、大変興味を覚える話しですので、大変な遅レスになりますが、失礼します。

 昔、白村江の戦いに興味を持ち出した頃、最初に疑問を覚えたのが、百済滅亡のあっけなさでした。古代史の史書の信憑性は、常に問題になり、一部の記事は信頼できず、架空扱いされることさえありますが。私が調べた限り、百済は対新羅戦役を有利に推し進めていたようにさえ思われるのに、いきなり滅亡の憂き目を見たのです。

 何故、百済は唐・新羅連合軍の攻勢を阻み、滅亡を防げなかったのか。ずっと時折、私が考えるうちに着目したのが、1940年の対仏戦役でした。

 1940年当時、仏はアルデンヌは突破不能という幻影を信じ、ディール計画に頼って、あっという間に降伏のやむなきに至りました。しかし、1940年当時、英仏連合軍は質はともかくとして、量において独軍に圧倒的に劣っていたわけではありません。幻影を信じる余り、予想外の作戦に対処しきれず、降伏せざるを得なくなったのです。

 百済に起きたのも似たようなことではないでしょうか。白村江の戦いの周辺情報を私が調べた限り、百済には海軍どころか沿岸警備隊さえ無かったように思われます。百済に対する唐からの海上侵攻はありえない。従って、陸軍をひたすら充実させ、対新羅戦争に専念するという作戦で百済がいたところ、唐がいきなり10万もの陸軍を海上から侵攻させて百済に対する上陸作戦を行った結果、百済は対処しきれず、亡国の憂き目を見たように思われます。最も、産業革命より前の時代に、10万もの陸軍を沿岸沿いからの侵攻作戦ではなく、いきなり海上からの上陸作戦を行いえたのは、私の知る限り、他には弘安の役の元軍くらいで、最盛期のローマ帝国でさえ実際に実行したことは無かったと思います。それを思えば、百済の国王を初めとする指導者層が予想できず、対処し切れなかったのも止むを得ないように思われます。如何なものでしょうか。


- 関連一覧ツリー (★ をクリックするとツリー全体を一括表示します)

- 返信フォーム (この記事に返信する場合は下記フォームから投稿して下さい)
おなまえ
Eメール
タイトル
メッセージ   手動改行 強制改行 図表モード
参照先
暗証キー (英数字で8文字以内)
  プレビュー

- 以下のフォームから自分の投稿記事を修正・削除することができます -
処理 記事No 暗証キー