History Quest「戦史会議室」
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タイトル Re: 本能寺の変の謎
投稿日: 2005/06/14(Tue) 15:33
投稿者ごちょう

>通説では、明智光秀が兵を集めていたのは、羽柴秀吉の援軍のた
>めとされていますが、毛利家と織田家の講和はほぼ決まりかけて
>おり、援軍の必要性がそもそも疑問です。

取り敢えず、問題を整理した方が良いと思います。

まず秀吉の援軍要請の必要性から見ていきます。山家さんは
援軍の必要性には否定的ですが、実際の戦況から考察したい
と思います。

まず、各勢力の石高の概算は以下のようになります。

羽柴軍         石高(万石)
但馬          11.4
播磨          35.9
伯耆          11
北近江(三郡)     10〜15
小計          68.3〜73.3

宇喜多軍        石高(万石)
備前          22.4
美作(半国)      9〜18.6
小計          31.4〜41

合計          99.7〜114.3

毛利軍         石高(万石)
備中          17.7
備後          18.6
安芸          19.4
因幡          8.9
出雲          18.7
石見          11.2
周防          16.8
長門          13.1
美作(半国)・伊予など 10〜20

合計          134.4〜144.4

秀吉軍の動員力は毛利軍の69%〜85%で、かなりの劣勢を強
いられていますね。信長本体の後詰なしでは決して優勢とは
言えない状況です。

ちなみにこれを旧陸軍の動員比率100石当たり2.5人役で換算
すると最大で秀吉は2万5千〜2万8千、毛利は3万4千〜3万6千
となりますね。秀吉側は高松城の負荷を考えると決戦正面に
は1万5千〜多くても2万が限界でしょう。

次に戦況を見てみましょう。

天正10年03月15日 秀吉軍、2万を動員し、備中へ出陣
同年  04月04日 秀吉軍、宇喜多軍と合流
同年  04月中旬 秀吉軍、備前・備中の国境付近の諸城を
         落とす(この頃毛利軍先陣として小早川
         軍が戦線に到着)
同年  04月下旬 秀吉軍、高松城を攻撃(強襲・失敗)
同年  05月上旬 秀吉軍、再度高松城を攻撃(強襲・失敗)
同年  05月08日 秀吉軍、水攻に作戦を変更(堤防工事着
         工)
同年  05月17日 秀吉、信長に援軍を要請。信長、明智光
         秀・池田恒興らに秀吉救援を命じる。
同年  05月20日 秀吉軍、堤防完成
同年  05月21日 毛利軍本隊(毛利輝元・吉川元春)が戦
         線に到着。毛利軍は総勢4万となる。
同年  06月02日 未明に本能寺の変が発生。

秀吉は宇喜多を合わせて2万5、6千、毛利も輝元自らの出馬
ですから総勢4万と言う動員も妥当な線です。大体両者とも
最大動員していると見て良いと思いますね。また秀吉軍は
既に高松城攻略失敗などによりかなりの損害を出している
筈なので決して額面通りの戦力と言う訳でも無いでしょう。
実際かなり毛利優勢と言えるのですが、しかし毛利軍が5月
末時点での決戦に踏み切れなかったのは梅雨による泥濘が
主な要因と言われています。

また信長の後詰の光秀と恒興で概算2万数千と言う援軍も
信長出馬までの暫定処置としては妥当な線です。要は「信
長到着まで毛利軍を抑えられれば良し」との判断でしょう
ね。光秀、秀吉軍を合わせれば4万強になり、膠着状態に
持って行くに十分以上の戦力になります。

仰せの様に通説では信長の出馬は形式上で、毛利との講和
交渉は既に最終段階に入っていたと言われていますが、史
料となるとちょっと未確認で良く分からない所もあります
ね。

少なくとも軍事的には秀吉は援軍が必要だと思えるのです
が。


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