History Quest「戦史会議室」
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タイトル Re^4: 本能寺の変の謎
投稿日: 2005/06/26(Sun) 00:05
投稿者山家

> 確かに光秀にも誤算はあったでしょうし、仮に上記のような展開になっていらならその後の光秀の運命も少しは違った物のなっていたかも知れません。しかし最終的な結果を覆すような展開には出来ないと思えます。
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> 仮に秀吉と毛利の拗れたとしても今度は反面、勝家と景勝の交渉が上手く行くと言う可能性もあるし、必ず一益が上野で大敗するとも言えないでしょう。また上杉や毛利が必ず光秀の思惑通りに動く保証などもありません。結局、誤算はつきものなのです。
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> 確かに全てが光秀の想定通りに運んだなら光秀逆転の可能性もあるかも知れませんが、現実の計画では「誤算をどれだけ許容できる計画であるか?」も考えるべきでしょう。つまり山家さんの想定は「全て光秀が最善手を指し、かつ光秀のダイスが『常にピンゾロ』であった場合」の想定に小生は思えるのです。そして現実はいつも光秀ばかりに「ピンゾロ」ばかりは出ないのです。
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> その点で見れば仮に光秀の計画が秀吉と家康の誤算程度で破綻してしまったのなら、その程度の誤算で破綻してしまう計画自体に問題を求めるべきでしょう。結局、光秀の計画は常に綱渡りで破綻しやすい計画でしかない事である事には変わりが無いので、成功の確率は低いと考えざる得ないのです。

秀吉と家康の誤算程度と言われますが。後知恵ならば、何とでもいえます。当時の光秀が持っていた情報からすれば、両方ともロクゾロを出されてしまった位の信じられないことなのです。徳川家康はその重臣と共に京都にいる筈でした。そして、羽柴秀吉は毛利家の援軍の前に大苦戦しており、織田信長本人の出馬を切望している筈でした。大苦戦している羽柴秀吉が速やかに毛利家と講和できると誰が考えられるでしょうか。

> 確かに当初は多くの混乱がありましたが、時間が経つにつれて各地の織田家臣団は急速に立ち直りつつあった事も見逃せない事実ですね。一説では出遅れていた勝家も越前と近江の国境の柳ヶ瀬まで兵を進めていたそうですから、それほど混乱はしていません。また信雄などは限定的ながら南近江で軍事行動をしています。主には安土から逃れてきた側室などの非難受け入れと、明智勢の撃退でしたが、こうした動きがあるからこそ、光秀は近江から兵を引き抜けなかったとも言えます。そして当然家康の伊賀越えを支援も行っており、こうした地味な動きからも、当初の混乱は急速に収まりつつあったのです。個人的にはこの時の家康支援が後の小牧・長久手合戦時の信雄・家康連合の素地になったのは?と考えています。

 柴田勝家軍が柳ヶ瀬に出陣していたこと、織田信雄が徳川家康の伊賀越えの支援を行っていたというのは初耳です。その情報の根拠を教えていただけませんか。また、光秀が近江から兵を引き抜けなかったといわれますが、本能寺の変のときと山崎の戦いのときと光秀の兵力はほぼ同数とされています。更に「豊鑑」によると、安土の明智秀満は、山崎の戦いの際に駆けつける途上だったとあります。織田信雄の限定的軍事行動が、光秀の脅威になっていたのなら、兵を置いておかざるを得なかった筈で、大した効果があったとは思われません。

> また混乱が大きかったされる信孝ですが、津田信澄攻撃などを行っており軍事行動自体は可能な状態にはありましたね。ちなみに仮に山崎合戦の秀吉・信孝連合4万として自前の秀吉本隊は精々2万で後の2万は信孝や摂津衆と言う事になります。そして当の山崎の合戦では強行軍で疲弊した秀吉軍では無く信孝軍と摂津衆が主力として戦っていますね。つまり信孝軍4千と言うはあくまで信孝本隊のみで長秀などの諸隊を合わせれば兵力的にも1万程度は保持していたと考えるの
が妥当でしょう。

 秀吉・信孝連合4万人というのは何が根拠なのでしょうか。「兼見卿記」によると2万人余りになっています。羽柴軍は備中高松城から強行軍を行っており、更に宇喜多軍を毛利軍の押さえとして残さざるを得なかったことから、精々1万人といったところ、と思われます。更に信孝軍は、副将格の信澄を討ったことから自壊しています。後、池田恒興や中川・高山といった摂津衆が加わるとしても、彼らは信孝の配下ではありません。これらを考え合わせると、信孝軍は精々五千人程と思われます。

> ちなみに形式上では信孝が盟主であり、秀吉が馳せ参じた事になっていますね。通説では何かと軽く扱われる信孝軍ですが、その存在から畿内や摂津衆の引き締めに奔走していたとも考えられます。当初の混乱も収束しつつあったとも言えるのです。

 信孝を山崎の戦いの盟主としないと、信孝や池田・摂津衆が納得しないでしょう。羽柴秀吉は、この時点ではまだ連合軍で最大の兵力保持者に過ぎません。また、本当に信孝が畿内や摂津衆の引き締めに奔走していた、という根拠があるのですか。信孝にそれだけの器量があるのなら、信孝は羽柴軍到着の前に明智光秀を討つことさえ、不可能とは思われません。何故なら、本能寺の変の直後、信澄を速やかに密殺して軍の動揺を防ぎ、京都へ急進すれば池田・摂津衆は信孝の下に集うことすら可能でしょう。しかし、実際には信澄を討つ際に大騒動をして、軍を動揺させて半壊させています。

> 確かに信長は反信長連合の各個撃破に成功しましたが、それは反連合の思惑の違いによる足並みの乱れと信長の政治的分断工作よるところが大きいからだと考えますね。

> もちろん光秀の旧織田家臣の分断工作が全く無いとは言えませんが、信長の時はかなり状況が違いますね。基本的に「仇討ち」で結束した反光秀連合ですから原則的に光秀と組むと言う選択肢は反光秀連合にはあり得ないのです。そして現実に分裂は起きなかった事からも政治的分断には限界あり、その点で信長の時ような「各個撃破」は難しいと考えるのです。
>
> そして軍事的にも反信長連合が優勢ではありましたが戦力的にはほぼ拮抗しており、兵力を集中することで信長は局地的には容易に優位に立つ事が出来ましたね。やはり状況的には光秀とかなり違うと考えるのです。
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> 具体的には信長上洛時の動員6万に比べ、光秀の畿内の動員力はそれ程強靭ではありません。山崎の時点では1万数千。仮に畿内の勢力加えたとしても3〜4万が限界だと思われます。対して織田旧家臣団は少なく見積もっても秀吉2万・勝家2〜3万・家康2万・信雄2万・信孝や恒興や清秀などで2万。これだけで10万〜11万はありますね。上記の内2〜3の勢力が結束しただけで光秀の3〜4万を上回る勢力となるのです。

 それぞれの兵力の算出根拠を教えていただけませんか。別のレスで書きましたが、100石当たり2・5人役から計算しました等、というのなら無意味です。あれは、夢想であると述べました。
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> また時間が経てば美濃や尾張の旧織田国衆も反光秀連合に統合されるでしょうし、逃げてきた一益の伊勢での復活も考慮に入れなければならなくなるでしょう。反光秀連合は増える一方なのです。
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> そして幸運にも旧織田家臣団の分断に成功したとしても光秀は秀吉・勝家・(家康)・信雄・信孝などに決戦で勝ち続けなければならないのです。その様な展開を前提に「光秀野望説」の状況証拠にするのは明らかに無理があると思えるのです。更に個々の決戦に勝利したとしても内線に位置する光秀遠征中に背後を突かれたら引き返す時間がありません。長期の遠征に耐えられる体制にはならないのです。ジリ貧です。

> 結局どう上手く行っても破滅は避けられないと思うのですが。

 その大連合が長期的にうまくいくという発想自体が、私には理解できません。光秀を討つために旧織田家家臣団が結束する、ここは理解できます。しかし、それが長期化しても協調性の取れたものになるでしょうか。柴田・信孝・滝川連合軍は、協調性が取れず、羽柴軍の前に敗れ去りましたし、信雄・徳川連合軍も、羽柴軍の前に個別講和しました。関が原の戦いでも西軍は協調できずに敗れました。信長包囲網でもそうでした。反光秀連合がうまくいくためには協調性が取れる必要がありますが、それが長くできると思われるのでしょうか。(ここでいう長くは数ヶ月以上を指します)。

 まず、誰が反光秀の盟主になるのでしょうか。信雄・信孝・三法師と候補者はいますが、誰がなっても他の二者がそっぽを向くでしょう。柴田勝家と羽柴秀吉は、織田信長が生きているときからいがみあっている間柄です。そして、光秀の予想通りなら、徳川家は家康に加え、酒井忠次・石川数正・本多忠勝といった宿老・名将を失っています。更に徳川家では、於義丸・長丸の家督争いさえ起こっているかもしれません。こういった状態で、東海甲信地方が安定し、反光秀軍が関が原の東から上洛できるでしょうか。私としては、光秀を討て、で旧織田家家臣団が名目上は結束できても、とても長きに渡って協調した行動ができるとは思われません。


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