タイトル | : Re^5: 本能寺の変の謎 |
投稿日 | : 2005/06/21(Tue) 22:17 |
投稿者 | : 山家 |
ちょっとネット検索を掛ければすぐ出てくる情報なので、ごちょうさまもそれ位調査した上で書き込まれているであろうし、出典を省略してもよいか、と一人合点しており、大変失礼しました。今後はできる限り、出典や論者を明記していきます。
> 三官推任に関してですが、村井貞勝の発案かどうかはともかく、記録上は当時の武家伝奏・勧修院晴豊の日記である「晴豊公記」に「天正十年四月二十五日」と日付まで明記されて具体的既述が残っています。
その日記に村井貞勝の発案であると書いてあるのですが、きちんと読まれましたか。これに対して、誤記であるという主張等がなされ、朝廷側からの発案であるという反論がなされています。(詳細は立花京子氏の著作を読んでください)。しかし、素直に書いてあるとおりに読むならば、村井貞勝の発案にしか読めません。それを外部状況等から誤記である等とするのは、どう見ても資料を自説に都合のよいように無理に解釈してあるようにしか私には思われません。
> ただ個々の状況証拠に関しては確かな物証があり例えば信長と朝廷も本能寺の変直前にも暦の問題で揉めていました。
暦についてですが、朝廷内部で当時の京暦が不正確であることが問題視され、暦を変えることが論じられていたことは、宣忠卿記の天文8年4月3日の記載等から現在明らかになっています。暦のことが信長と朝廷の間で深刻な問題になっていたというのは無理があると思われます。
更に言うならば、本能寺の変当時、信長は右大臣は返上していますが、正二位の位は保持したままであり、織田家の家督を継いだ織田信忠は三位中将である等、朝廷の権威を認めてきています。そして、三職推任からも朝廷の下にあろうとしたのは、自明のことに思われます。
> 光秀は信長の甥(信行の嫡男)の津田信澄と血縁関係を結んでいますね。ちなみ上記のような血縁工作はこの光秀の娘と信澄が最初で当時は破格の待遇だったといわれています。むしろ光秀は上記のような血縁工作には積極的だったと言えます。そう言った意味では状況証拠としても推測の域にでしかないと思われますね。
この津田信澄と織田信長の関係というのは微妙なものがあります。何故なら津田信澄の父織田信行は、織田信長と家督を争った人物です。更に、林秀貞が追放された理由の一つとして、織田信行に味方したことが挙げられています。津田信澄との関係があるから、自分は安心できると明智光秀が思えたとは、到底思えません。