History Quest「戦史会議室」
[記事リスト] [新着記事] [ワード検索] [過去ログ] [管理用]

タイトル Re^3: 備中高松城攻めの謎
投稿日: 2005/06/27(Mon) 01:52
投稿者ごちょう

>プロイセンのフリードリッヒ大王が知れば、感
>動の余り、お手本に絶対しそうな代物なのです。

>18世紀のプロイセンの常備軍の倍の武士を養
>えたというのは、私としては納得できません。

フリードリヒ大王が感動したかどうかは分かりま
せんが(笑)時代も地域も全く異なる近世のヨー
ロッパの事情を積算基準にするのはどうかと思い
ますし、比較価値も無いと思うのですがね。

これを論拠として持ち出されても小生は「比較が
しようが無い」としか言えませんね。

もちょっとマシな積算比較は無いのですか?

>そして、その住民にしても、平均寿命は長く見
>て30歳そこそこ、10代未満が多いのです。
>私としては、毛利家の援軍4万人というのは、
>呼号するだけで実態の無いものだと考えるのは
>上記の理由があるからです。

いきなり本論と違う平均寿命の話をされても…。

一応解説しますが、平均寿命は「統計上の寿命の
目安」で実際の年齢人口分布とは全く異なり、関
係性も全くありません。単に「寿命の平均値」で
しかありません。もちろん当時一般的な成人が3
0歳で寿命が来るわけでもありません。

結論から言うと特に近代以前は、乳幼児の死亡率
が高かったからです。そして統計上の平均寿命が
伸びた要因はこの「乳幼児の死亡率」が減少した
効果が大きいのです。別に成人の寿命が著しく伸
びたわけでは無いのです。

ちなみに現在でも先進国と発展途上国との「平均
寿命」の格差はこの「乳幼児の死亡率」の高さに
よるものなのです。まあだからこそユニセフも
黒柳徹子も頑張っているのですが。

小生的には出産後初七日のお宮参り(これは生後
一週間以内の死亡率が異常に高い事による)から
始まって7・5・3までが乳幼児死亡の目安にな
るかと思います。

統計上は5歳までが「幼児」とされるようです。

成人後は厄年(男41歳・女33歳)から還暦(
60歳)までに大抵寿命が来ると言う事かと推測
します。また厄年に関しては「男女の更年期の目
安」とも言われていますね。まあ山内さんの説の
ようにもし30前後で寿命が来るなら厄年など意
味を持ちませんがね。

改暦以降は「ロスタイム」と言う事でしょうね。

手元に具体的な史料がないので確認は出来ません
が、乳幼児の死亡率を考慮すれば当時の成人の一
般的な寿命は45〜55歳前後はあったと推測で
きます。個人的な見解では敦盛の「人生50年」
と言った辺りだと考えています。

信長が「人生30年〜」では…おいおい(爆)

一応簡単な解説があります。

http://www.taishitsu.or.jp/aging/aging6.html

>ごちょうさまは、何を持って、根こそぎ動員で
>ないとされるのでしょうか。

確実なところでは秀吉の朝鮮役の動員記録があり
ますね。

一応抜粋しますと(歴史群像シリーズ・石田光成
より)

氏名    軍役  石高  100石当たりの軍役

毛利元就  30000  112万 2.67
鍋島直茂  12000  31万  3.87
小早川隆景 10000   30万  3.33
加藤清正  10000  19万  5.26
宇喜多秀家  10000  47万  2.12
小西行長     7000   14万  5.00
福島正則     5000  11万  4.54
黒田長政     5000   12万  4.16

朝鮮役の主力軍の動員率は軒並み2人以上です。
しかも小西行長・加藤清正に至っては5人以上で
す。しかも海外遠征軍ですから「ばりばりの常備
軍」と言う事になりますね。一応領内に治安維持
の為にある程度守備を置くことも必要ですからそ
もそも「根こそぎ動員」などできるはすがありま
せん。常識的にも見てもそんな軍役を秀吉がする
とは思えんのですが。それともイジメですかね。

でもイジメの為に役に立たん動員してまで秀吉は
朝鮮に遠征しますかね。それこそ無意味と言えま
す。しかも警戒していたと言われる家康には朝鮮
役の実質的な動員は免除されていますしね。

そして小西行長・加藤清正は朝鮮軍から最先鋒の
精鋭として非常に恐れられています。ちなみに清
正には「虎狩り」の伝説もありますね。もし仮に
山家さんの「根こそぎ動員説」を是とするなら小
西・加藤の軍勢は「三流以下の農民兵」と言う事
になり役に立たない筈ですが、なぜ彼らは最前線
で朝鮮軍から恐れられたのでしょうかね?

まあ山家説ならこんな動員をしたら西国経済は破
綻してとても統治どころではないと考えますが、
そうなっていないのが何よりも状況証拠となりま
すね。しかも彼らは慶長の役で朝鮮に再遠征して
います。山家説なら西国経済は壊滅しますね。

うーん、山家説だと実に不思議な西国になります
ね。

ちなみに「明智軍記」では100石6人役と言う、も
しフリードリヒ大王が聞いたら感動を超えて卒倒
し、そのまま気が触れそうな軍役の既述もありま
すね(爆)

軍役の査定方法は諸説ありますが100石2.5人役と
言うのが最も一般的なのでそれだけでも十分論拠
となるでしょうね。

>本当に五ヶ国割譲ならば、美作や因幡を今更割
>譲云々するのは不自然です。

「豊臣秀吉合戦総覧」で確認できる交渉内容は天
正10年6月2日と6月3日の妥結案だけです。

6月2日の内容は以下の通り。

1、割地は中国7国とすること
2、清水宗治を自刃させること
3、人質を出すこと

「7国」と言うのがミソで因幡・美作を入れない
と計算が合わないのです。

6月3日の妥結案は以下の通り。

1、河辺川(高梁川)と八幡川以東と割地するこ
  と
2、清水宗治を自刃させること

また因幡・美作割譲の既述は「戦史ドキュメント
・豊臣秀吉」よると毛利方の史料「江系譜」に因
幡・美作の既述があり、翌年12月に土地・城の引
渡しを告げた書状も残っているそうです。


- 関連一覧ツリー (★ をクリックするとツリー全体を一括表示します)

- 返信フォーム (この記事に返信する場合は下記フォームから投稿して下さい)
おなまえ
Eメール
タイトル
メッセージ   手動改行 強制改行 図表モード
参照先
暗証キー (英数字で8文字以内)
  プレビュー

- 以下のフォームから自分の投稿記事を修正・削除することができます -
処理 記事No 暗証キー