タイトル | : 備中高松城攻めの謎 |
投稿日 | : 2005/06/16(Thu) 22:01 |
投稿者 | : 山家 |
まずは一つ一つ考えて行きたいと思います。
備中高松城ですが、手元の「岡山の古戦場」によると、備中高松城に篭城していたのは1万騎余りと雑兵2000余り、他の備中境目の六城の内具体的な兵数の記載のある冠山城、庄日幡城、鴨庄城、岩崎城、宮路山城の兵数は合計で1150騎、雑兵1万1500余りが篭城していたとあります。単純に合計すると2万人を軽く超えてしまいます。これだけの兵が境目に配置されていたのですから、ある程度は持久抗戦できるはずです。しかし、羽柴・宇喜多連合軍約3万の攻撃の前に備中高松城以外の城は1月も持たずにあっという間に落城してしまいます。
幾ら連合軍への内応等があったとはいえ、余りにも早過ぎます。このことから考えられるのは、毛利家は日本が太平洋戦争末期に行ったような根こそぎ動員により、連合軍の攻勢に対処しようとしていたのではないか、ということです。従って、兵の質が低下しており、毛利家は境目の城で持久抗戦できなかったのではないか、と私には思われるのです。
他にも毛利軍の戦力が額面よりも弱小であったという傍証があります。備中高松城救援の毛利軍の配置が余りにも及び腰という点です。備中高松城への援軍として、岩崎山に吉川軍1万、日差山に小早川軍2万、毛利輝元直率の本軍1万が猿掛城に布陣したと伝えられていますが、何れも備中高松城との間は足守川により隔てられ、岩崎山で4km、日差山で8kmも備中高松城から離れており、猿掛城に至っては高梁川も間にあって20km以上も備中高松城から離れています。これで援軍の実効性が挙げられるでしょうか。
更に羽柴秀吉は講和条件としてまだ足を踏み入れてもいない備後を含む5ヶ国割譲を提示しています。本当に毛利軍の援軍が精鋭4万人で構成されていたら、織田信長が明智軍等を援軍として差し向けてもせいぜい6万程で、更に備中高松城に1万以上の将兵が篭城しているのですから、毛利側が明らかに有利です。それなのに、余りにも過酷な講和条件を提示できるということは、毛利軍の援軍が極めて少なかったか、援軍の質が悪かったからではないか、従って、明智光秀等が救援に赴く必要は無かったのではないか、と私には思われるのです。
余談になりますが。備中高松城水攻めについては、その規模等について、大幅に考え直す必要がありそうです。「備中高松城の水攻め」によりますと、水攻めのために作られた堤防に必要な土砂は東京ドームの体積の約3分の1で、10トン積みのダンプカーが延べ6万4329台も必要になるそうです。その堤防が12日間で作られたということは、土俵を積むためだけにしても、昼夜兼行で24時間働くとしても2000人近くが必要だそうです。更に使用された土俵は経費が正しいとして計算すると635万400俵になるそうで、1日に約50万俵が積み上げられたことになります。そして、土俵の作成や、積み上げた土俵が崩れないように杭を作成して、それを打ち込むのにもさらに人手が必要で、と考えていくと、本当に高さ8m、基底部幅24m、上端部幅12m、長さ4kmにも及ぶ大堤防が12日間でできたという記述には、私としては多大な疑問を覚えます。