タイトル | : Re: 備中高松城攻めの謎 |
投稿日 | : 2005/06/17(Fri) 22:35 |
投稿者 | : ごちょう |
>このことから考えられるのは、毛利家は日本が太平洋戦争
>末期に行ったような根こそぎ動員により、連合軍の攻勢に
>対処しようとしていたのではないか、ということです。従っ
>て、兵の質が低下しており、毛利家は境目の城で持久抗戦
>できなかったのではないか、と私には思われるのです。
確かに毛利家はジリ貧でしたが、山家さんが言うほど酷い状
況でもなかったと思うのですが。その後の秀吉の四国・九州
遠征では文字通り主力として3〜5万を動員しています。こ
の潜在力から見ても毛利の本隊が「根こそぎ動員」とはとて
も思えんのですが。それに毛利は対織田戦においてそれ程消
耗戦をしていませんね。やはり毛利のモラルダウンはあくま
で信長本隊の潜在力が大きいと考えます。
この毛利国衆のモラルダウンの背景には相次ぐ毛利の後詰の
失敗が大きく作用していますね。他の事例でも後詰失敗によ
る国衆の離反は致命傷となっています。また斜陽とは言えあ
の武田を電撃的に崩壊させた信長本隊の軍事的威信も毛利国
衆に対する精神的打撃を与えたでしょうね。特に国境の国衆
に対する影響は大きく毛利も引き締めに奔走していたそうで
す。
ちなみに当時の篭城はあくまで後詰到着までの繋ぎなので山
家さんの「持久抗戦」と言うものとかなり違います。あくま
で後詰による機動防御が基本なのです。ですので救援失敗が
国衆とっては深刻な問題となるのです。
また毛利の「根こそぎ動員」に関しても具体的な既述が無い
ので、やはり国境の国衆のモラルダウンは「後詰失敗による
離反」によるもので兵の質とは関係ないのでは無いでしょう
か?
>更に羽柴秀吉は講和条件としてまだ足を踏み入れてもいな
>い備後を含む5ヶ国割譲を提示しています。
これについては未確認なので何とも言えませんね。五ヶ国割
譲と言うことは毛利の領国安堵は安芸・周防・長門のみと言
う提案ですか?かなり非現実的な提案に思えます。それとも
美作・因幡・伯耆を含めた五ヶ国と言う事なのでしょうか?
通説では美作・因幡・伯耆・出雲・備中の五ヶ国辺りの交渉
だと言われていますね。事前交渉の進展状況も未確認なので、
信憑性において若干懐疑的にならざる得ませんね。
何等かの資料があるのでしょうか?
>本当に高さ8m、基底部幅24m、上端部幅12m、長さ
>4kmにも及ぶ大堤防が12日間でできたという記述には、
>私としては多大な疑問を覚えます。
ちなみに「歴史群像シリーズ・驀進・豊臣秀吉」では堤防3
〜4Kmの大規模な物では無く、蛙ヶ鼻・水越付近の300
m程度だったと言う説もありますね。