History Quest「戦史会議室」
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タイトル Re^2: 本能寺の変の謎
投稿日: 2005/06/20(Mon) 22:25
投稿者山家

 他にもレスすべきところが多々あるのですが、とりあえず遅れている部分のみで失礼します。

 明智光秀の天下取りにおいては、幾つかの誤算が本能寺の変の直後から明智光秀にとって生じていると思われます。そのため、後知恵から明智光秀の天下取りは不可能だった、という結論に流れがちになっているように、私には思われるのです。

 まず、第一の誤算は、徳川家康を殺し損ねたことです。「本城惣右衛門覚書」やフロイスの「イエズス会日本報告集」によると、明智光秀は家康も本能寺の変の際に同時に討つつもりだったと考えられます。仮に失敗して徳川家康に逃げられても、後に自らも手に掛けられ、穴山梅雪も殺されたように、落ち武者狩りに徳川家康は殺されると考えていたと、私には思われます。なお、この際、本多忠勝や石川数正、酒井忠次といった徳川家の重臣の数多くも徳川家康に同行しています。これらの重臣ごと徳川家康が殺されていたら、徳川家は崩壊しないまでも、中小勢力に転落していたでしょう。

 第二の誤算は、羽柴秀吉の急速な上洛です。羽柴秀吉は、明智光秀以下の増援軍が来ることを聞き、街道に補給物資の蓄積等の準備をしていました。そして、毛利家との急速な和睦が成立したため、急速に羽柴秀吉は上洛することができました。

 この二つの誤算が無く、徳川家康が本能寺の変とほぼ同時に殺され、羽柴秀吉が毛利家によって、1ヶ月でも拘束されていたら、明智光秀の天下取りはかなり可能性があったと思われます。実際に、柴田勝家は本能寺の変により上杉家に対して、一転して守勢を取る羽目になり、滝川一益等は命からがら本国に逃げ帰り、丹羽長秀や織田信孝の軍勢は、明智軍に恐怖して、羽柴秀吉が駆けつけるまで、崩壊しつつありました。

 そして、半月でも畿内を制圧し、織田家の旧武将達を各地域に分断させてしまえば、織田信長という独裁者を失い、直接の連絡も困難になった織田家の旧武将達を各個撃破することは、実行不可能な夢想でしょうか。実際に織田信長は合計戦力では優勢だった織田家の包囲網を各個撃破していくことに成功してきています。

 徳川家が混乱に陥り、羽柴秀吉の摂津への到着が7月になっていたら、近江での経過から考える限り、明智光秀は畿内を軍事制圧下におき、但馬から羽柴家の支援を受けられる細川家を除き、筒井家や、高山、中川といった摂津衆等を支配下に収めて、羽柴家等と対抗できたと私には思われます。そうすれば、明智光秀の天下取りは、それなりに見えてくるものになっていたと私には思われます。


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