タイトル | : Re^5: 本能寺の変の謎 |
投稿日 | : 2005/06/27(Mon) 17:17 |
投稿者 | : ごちょう |
>大苦戦している羽柴秀吉が速やかに毛利家と講和できると >誰が考えられるでしょうか。 おいおい、ちょっと待ってください。 山家さんは別記では「毛利は根こそぎ動員で戦意なかった。 信長の援軍の必要ない」と明言してしていますね。しかしな がら当発言では一転では「秀吉大苦戦」と発言しています。 これは自己矛盾も甚だしく、論旨に一貫性がありません。 自己都合で論旨を変えているようにしか見えないのですが。 すくなくとも小生にはそう思えます。 仮に光秀が秀吉の報告を過大評価したとしても、それならば なおさら光秀は織田諸将の実態を把握してなかったと言うこ とになり、野望説の前提そのものが崩れると考えますが。 もし光秀が秀吉の実態すら知らずに謀反をおこしたとするな ら、それは野望でも何でもなく「誤算」を通り越して「無謀」 と言うべきでしょうね。 >柴田勝家軍が柳ヶ瀬に出陣していたこと、織田信雄が徳川 >家康の伊賀越えの支援を行っていたというのは初耳です。 >その情報の根拠を教えていただけませんか。 勝家の論拠にかんしては「歴史群像シリーズ・戦国合戦大全 下巻」の「二十六度勝った男・柴田勝家」にその一説の記述 がありますね。 また以下のHPの記述の中にも見られます。 http://members.at.infoseek.co.jp/masa_2/hist.html 伊賀越えに関して根拠ですが、確かに山家さんの言うとおり 「伊賀」においては服部半蔵など活躍の記録ばかりで信雄の 支援の記述は見られません。 しかしここで考え違いをおこしてはいけまん。ここで言う家 康の「伊賀越え」は岡崎までの全工程を指すのです。そして 家康の最終目的も「岡崎に帰る事」なのです。 史料等では伊勢からの工程には特に記述が見られないのです が、つまりそこに信雄の支援あり、だからこそ何の問題も無 く岡崎に帰還できたと考えています。そして家康の「伊賀越 え」の決断も「最悪伊勢まで行けばあとは信雄の支援を受け られる」と言う判断があったものと推測します。 伊勢で「落ち武者狩り」が無いとは思えないのでこの伊勢に おける信雄の支援は「伊賀」と同様に重要でしょう。信雄の 家康の支援と言うのはこう言う「見えないところに存在する」 のです。 >織田信雄の限定的軍事行動が、光秀の脅威になっていたの >なら、兵を置いておかざるを得なかった筈で、大した効果 >があったとは思われません。 「本能寺の変の群像・藤田達生」によると史料的にはフロイ スの「日本記」には安土城に放火したのは信雄と言う記述が あります。他の史料から見て安土城が炎上したのは6月14日と されていますから、信雄の近江の軍事行動の論拠となる状況 証拠になりますね。 また安土炎上にかんしては「太閤記」などによる記述から光 秀敗戦を聞いた光満自らが安土城に放火して坂本城に退却し たと言う説も有力です。ちなみに光満は6月14日に坂本城に放 火した上で自刃しているのも確認できます(上記の著書のP15 2表5による)。信雄・光満のいずれが安土城に放火したかは 未定ですが、少なくともとも光満は近江から信雄の軍事的圧 力よって近江から動けなかったのは確かだと推測できますね。 >秀吉・信孝連合4万人というのは何が根拠なのでしょうか。 一応「太閤記」などに記述があるはずですよ。と言うか大抵 のの研究では秀吉2万・信孝その他2万。対して光秀1万5 千〜2万となっています。ですので論拠を聞くまでも無く「 ストライクど真ん中」な数字だと思うのですがね。 「大抵」の論拠はあまりに多いので割愛します。 >「兼見卿記」によると2万人余りになっています。羽柴軍 >は備中高松城から強行軍を行っており、更に宇喜多軍を毛 >利軍の押さえとして残さざるを得なかったことから、精々 >1万人といったところ、と思われます。 確かに「秀吉軍は一万余騎」と言う記述も見受けられますね。 しかしその場合は秀吉・信孝軍2万。光秀軍1万と言った解 釈になりますね。比率はそう変わらないのですよ。 まあこの「騎」と言う表記も結構曲者なのですが、ここでは 割愛させて頂きます。 >また、本当に信孝が畿内や摂津衆の引き締めに奔走してい >た、という根拠があるのですか。 論拠は既に山家さんが書いてあると思いますが。 >信孝を山崎の戦いの盟主としないと、信孝や池田・摂津衆 >が納得しないでしょう。羽柴秀吉は、この時点ではまだ連 >合軍で最大の兵力保持者に過ぎません。 仮に秀吉が引き締め工作をしたとしても諸将がどれだけ秀吉 に付いてくるかは未知数であるわけですね。だからこそそれ が「信孝の引き締め工作」の状況証拠となるのですよ。そし て撤退準備に忙しい秀吉に比べ、距離的にも状況的にも信孝 が引き締め工作をしていたと考えるべきかと思います。また 本能寺の変直前の信孝と秀吉の関係からして引き締め工作に 関しては信孝・秀吉間で事前謀議があったとも思えます。 >信孝にそれだけの器量があるのなら、信孝は羽柴軍到着の >前に明智光秀を討つことさえ、不可能とは思われません。 この辺は何ともいえません。信孝としてはたとえ摂津衆を入 れても兵力的には拮抗しているので秀吉の援軍到着まで時期 を待ったとも言えます。自壊したいたからとは一概に言えな いでしょう。 ちなみに「謎解き本能寺の変・藤田達生」によると信孝軍 の備えのために淀城(京都市伏見区)を修築している所か らも信孝の存在を無視していた訳ではありません。 そしてもし自壊していたなら淀城修築などは必要なく、躊 躇なく撃破に向かっている筈だと思えるのですがね。 >それぞれの兵力の算出根拠を教えていただけませんか。別 >のレスで書きましたが、100石当たり2・5人役から計 >算しました等、というのなら無意味です。あれは、夢想で >あると述べました。 では石高を比較して判断しましょう。 氏名 石高(万石) 明智光秀 丹波 26 山城 22 近江 5〜10 計 53〜58 徳川家康 駿河 15 遠江 25 三河 29 計 69 織田信雄 伊勢(半国) 28 伊賀 10 大和(半国) 22 計 60 柴田勝家 越中 38 能登 21 加賀 35 越前 49 計 143 羽柴秀吉 但馬 11 播磨 35 伯耆 11 北近江 10〜15 計 67〜72 宇喜多秀家 備前 22 美作(半国) 9 計 31 合計 98〜103 織田信孝・その他(推定) 摂津 35 河内 24 和泉 14 伊勢(半国) 28 計 101 光秀 合計 53〜58 反光秀合計 471〜476 どの勢力を取ってみても光秀と同等以上の動員力を持ってい る事になります。仮に光秀軍2万なら各勢力も2万は出せる でしょう。ですので反光秀軍総計10万〜11万と言う数字 はあながち不自然な数字では無いのです。しかも国力差から みれば反光秀軍は光秀軍の9倍から10倍の動員力を持っていま すから、むしろこれでもかなり控えめな数字になりますね。 >その大連合が長期的にうまくいくという発想自体が、私に >は理解できません。 理由は簡単です。「光秀を討たなければ絶対に織田家の後継 首班になれない」からです。この前提がある以上「まず光秀 を討つ!」これが反光秀連合の絶対の目的意識なのです。で すのでこれがある以上光秀との単独講和に応じる事はないの です。 この前提は不動でその点が他の事例とは大きく異なります。 仮に完全な連合とはならなくてもこの目的意識は不動なので 光秀と組む織田勢力が現れない以上結果としてはそう変わら ないのです。対して信長包囲網の事例では信長は臨機応変に 各勢力を講和しつつ各個撃破に成功しました。浅井・朝倉は 元より、不利になると本願寺とも講和することも厭いません でした。これは各勢力の思惑が「まずは自己の安全」を前提 にしていたからに他なりません。つまり光秀が勝つには「打 倒光秀」の前提を何らかの政治工作で崩さねばならないので す。 もし光秀が何等かの分断工作をするなら「光秀以外の後継首 班」を指名する必要があります。可能性でみれば秀吉の時の ように三法師を担ぎ出して「信長の正当な後継政権」を目指 すしかありません。 しかし「野望説」で捉えるなら「光秀後継首班」の前提は基 本的に崩せないので、光秀が首班である以上分断工作は不可 能なのです。従って光秀と反光秀連合の妥協点は無くどちら かが滅亡するまで続く終りの無い最終戦争しかありえないの です。 もちろん光秀討伐後の政治闘争はありますが、それはまた別 の話なのです。