History Quest「戦史会議室」
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タイトル Re^3: 本能寺の変の謎
投稿日: 2005/06/21(Tue) 03:19
投稿者ごちょう

>徳川家康が本能寺の変とほぼ同時に殺され、羽柴秀吉が毛
>利家によって、1ヶ月でも拘束されていたら、明智光秀の
>天下取りはかなり可能性があったと思われます。

>そして、半月でも畿内を制圧し、織田家の旧武将達を各地
>域に分断させてしまえば、織田信長という独裁者を失い、
>直接の連絡も困難になった織田家の旧武将達を各個撃破す
>ることは、実行不可能な夢想でしょうか。

確かに光秀にも誤算はあったでしょうし、仮に上記のような
展開になっていらならその後の光秀の運命も少しは違った物
のなっていたかも知れません。しかし最終的な結果を覆すよ
うな展開には出来ないと思えます。

仮に秀吉と毛利の拗れたとしても今度は反面、勝家と景勝の
交渉が上手く行くと言う可能性もあるし、必ず一益が上野で
大敗するとも言えないでしょう。また上杉や毛利が必ず光秀
の思惑通りに動く保証などもありません。結局、誤算はつき
ものなのです。

確かに全てが光秀の想定通りに運んだなら光秀逆転の可能性
もあるかも知れませんが、現実の計画では「誤算をどれだけ
許容できる計画であるか?」も考えるべきでしょう。つまり
山家さんの想定は「全て光秀が最善手を指し、かつ光秀のダ
イスが『常にピンゾロ』であった場合」の想定に小生は思え
るのです。そして現実はいつも光秀ばかりに「ピンゾロ」ば
かりは出ないのです。

その点で見れば仮に光秀の計画が秀吉と家康の誤算程度で破
綻してしまったのなら、その程度の誤算で破綻してしまう計
画自体に問題を求めるべきでしょう。結局、光秀の計画は常
に綱渡りで破綻しやすい計画でしかない事である事には変わ
りが無いので、成功の確率は低いと考えざる得ないのです。

>実際に、柴田勝家は本能寺の変により上杉家に対して、一
>転して守勢を取る羽目になり、滝川一益等は命からがら本
>国に逃げ帰り、丹羽長秀や織田信孝の軍勢は、明智軍に恐
>怖して、羽柴秀吉が駆けつけるまで、崩壊しつつありまし
>た。

確かに当初は多くの混乱がありましたが、時間が経つにつれ
て各地の織田家臣団は急速に立ち直りつつあった事も見逃せ
ない事実ですね。一説では出遅れていた勝家も越前と近江の
国境の柳ヶ瀬まで兵を進めていたそうですから、それほど混
乱はしていません。また信雄などは限定的ながら南近江で軍
事行動をしています。主には安土から逃れてきた側室などの
非難受け入れと、明智勢の撃退でしたが、こうした動きがあ
るからこそ、光秀は近江から兵を引き抜けなかったとも言え
ます。そして当然家康の伊賀越えを支援も行っており、こう
した地味な動きからも、当初の混乱は急速に収まりつつあっ
たのです。個人的にはこの時の家康支援が後の小牧・長久手
合戦時の信雄・家康連合の素地になったのは?と考えていま
す。

また混乱が大きかったされる信孝ですが、津田信澄攻撃など
を行っており軍事行動自体は可能な状態にはありましたね。
ちなみに仮に山崎合戦の秀吉・信孝連合4万として自前の秀
吉本隊は精々2万で後の2万は信孝や摂津衆と言う事になり
ます。そして当の山崎の合戦では強行軍で疲弊した秀吉軍で
は無く信孝軍と摂津衆が主力として戦っていますね。つまり
信孝軍4千と言うはあくまで信孝本隊のみで長秀などの諸隊
を合わせれば兵力的にも1万程度は保持していたと考えるの
が妥当でしょう。

ちなみに形式上では信孝が盟主であり、秀吉が馳せ参じた事
になっていますね。通説では何かと軽く扱われる信孝軍です
が、その存在から畿内や摂津衆の引き締めに奔走していたと
も考えられます。当初の混乱も収束しつつあったとも言える
のです。

>実際に織田信長は合計戦力では優勢だった織田家の包囲網
>を各個撃破していくことに成功してきています。

確かに信長は反信長連合の各個撃破に成功しましたが、それ
は反連合の思惑の違いによる足並みの乱れと信長の政治的分
断工作よるところが大きいからだと考えますね。

もちろん光秀の旧織田家臣の分断工作が全く無いとは言えま
せんが、信長の時はかなり状況が違いますね。基本的に「仇
討ち」で結束した反光秀連合ですから原則的に光秀と組むと
言う選択肢は反光秀連合にはあり得ないのです。そして現実
に分裂は起きなかった事からも政治的分断には限界あり、そ
の点で信長の時ような「各個撃破」は難しいと考えるのです。

そして軍事的にも反信長連合が優勢ではありましたが戦力的
にはほぼ拮抗しており、兵力を集中することで信長は局地的
には容易に優位に立つ事が出来ましたね。やはり状況的には
光秀とかなり違うと考えるのです。

具体的には信長上洛時の動員6万に比べ、光秀の畿内の動員
力はそれ程強靭ではありません。山崎の時点では1万数千。
仮に畿内の勢力加えたとしても3〜4万が限界だと思われま
す。対して織田旧家臣団は少なく見積もっても秀吉2万・勝
家2〜3万・家康2万・信雄2万・信孝や恒興や清秀などで
2万。これだけで10万〜11万はありますね。上記の内2
〜3の勢力が結束しただけで光秀の3〜4万を上回る勢力と
なるのです。

また時間が経てば美濃や尾張の旧織田国衆も反光秀連合に統
合されるでしょうし、逃げてきた一益の伊勢での復活も考慮
に入れなければならなくなるでしょう。反光秀連合は増える
一方なのです。

そして幸運にも旧織田家臣団の分断に成功したとしても光秀
は秀吉・勝家・(家康)・信雄・信孝などに決戦で勝ち続け
なければならないのです。その様な展開を前提に「光秀野望
説」の状況証拠にするのは明らかに無理があると思えるので
す。更に個々の決戦に勝利したとしても内線に位置する光秀
遠征中に背後を突かれたら引き返す時間がありません。長期
の遠征に耐えられる体制にはならないのです。ジリ貧です。

結局どう上手く行っても破滅は避けられないと思うのですが。


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